宮の坂ドライブイン

あった事を書く

ボリビアの湖

(凛遙)

 

 凛が遙のうちに足を運ぶようになってもうしばらくが経つ。チャイムを鳴らそうが扉を叩こうが遙は迎えになど出ないので、裏口から勝手に入るという無作法ももう常套手段であった。

 廊下を渡った先の居間に遙は居なかった。台所や風呂場はともかく、洗面所のあたりにもその姿が見つからないので、凛は玄関の側にまわり、階段を使って二階へと上がった。昼間の明るい日差しが静かに射し込む廊下で、ハル、と語尾をあげて名前を呼ぶ。ややあって、こっちだ、とわずかな声がするので、凛は奥側のそれを選んで戸を引いた。

  遙は確かにそこに居て、床に敷かれたカーペットに直に腰を下ろしていた。隣には大きな行李を従えていて、聞くと衣替えをしていると言った。薄い遙の体を取り囲むように連なる洋服の山々を見渡した凛は、お前こんなの持ってんの、と言いながら赤い色のTシャツを両手で広げてそれを見た。聞いた遙が白い長袖を畳みながら、欲しいならやる、と言ったが、凛は無視してそのTシャツを元のように畳み、近くの山のてっぺんに置くとその場を後にした。開け広げられた窓から冷たい空気が入りこんではいたものの、クーラーをつけない部屋は凛には暑すぎるのだった。

 しばらくすると遙も階段を降りてきて、台所の蛇口をひねって手を洗った。その姿を見た凛は、畳の上に横たえていた体を起こして座り直し、テーブルにあったリモコンを掴んでテレビをつけた。昼間のバラエティではちょうどタレントらが手相占いに興じている所で、占い師の女が、コンビ芸人の片われの手を見てブツガンソウがある、と言った。該当する部分に赤く線がひかれた手のひらのイラストが示されて、うなるような女の声による説明がのろのろと続く。
 凛はテーブルについていた頬杖を外し、まずは自分の左手を見て、次に、ハルこれあんじゃねーの、とエプロンをつけた遙の背中に声をかけた。包丁を扱う遙が無視をするので、凛はおい、聞いてんのか、と声を荒げ、もう一度聞き直した。


「なんか目みたいな線あるか?親指の関節のとこ」
「ある」
 包丁をまな板に置き、今度こそ左手をじっと見つめる横顔が言うので、マジかよ、と凛も畳から腰をあげて見に行った。遙の左手を掴み、己の方に向けさせてみると、確かにそれらしき線は認められるのだが、しかしあると言うには頼りない、あまりにうっすらとしたものである。訝しく思いながら手のひら全体を見てみると、そこには薄く細い線がほとんど無節操なほどにひかれている。仏眼相どころか生命線や運命線も浅くぼんやりとしていて、つまり遙は元々手相自体が薄い人間であるらしかった。

 それから凛が、お前、これはあるって言わねーだろ、と、掴んでいた手首を投げるように手離したので、遙の腕はぶらりとふりこのように勢いよく振れた。すっかり興味を無くした凛が再びテーブルに頬杖をつき、リモコンを操作してチャンネルを変えてしまっても、遙はまだ己の手のひらを見つめる姿勢のままでいた。

 


 その日の昼は冷麺だった。いただきます、と手を合わせる遙を横目に、凛が麦茶を一気にあおるので、遙は箸を止めて立ち上がると、冷蔵庫からガラスのポットを取り出した。


「なぁ、お前よく物落とすの、そのせいじゃねーの」
 空のコップに麦茶をつぎ足そうとする遙の、その扁平な手のひらを思い出しながら、ふと思いついて凛は言った。聞いた遙は手を止めて、そうかもしれない、と心底驚いたような声色で言う。しかし己に向けられたその表情が、いつもと変わらぬ静かに凪いだものでしかなかったので、凛は、なんだよそれ、と持っていた箸を落としてけらけらと笑った。